海老名香葉子さん
オーラの泉(2006/08/16放送)に、エッセイストの
海老名香葉子さんが出演。
○海老名香葉子さんのプロフィール
海老名 香葉子(えびな かよこ)
生年月日:1933年10月6日
出身地:東京本所
1952年、林家三平と結婚。
長女はタレントの海老名美どり、長男は落語家の林家正蔵、
次男は落語家の林家いっ平。
○冒頭
美輪さん、江原さんと戦争の話。
約60年前、日本とアメリカが戦争をしていたが、
そのことを知らない今の若い人はたくさんいる。
日本は建物や生命だけでなく、伝統や文化、人の心、
全てを失った。
それまで日本はアインシュタイン、エジソン、チャップリン、
モネ、マネ、ゴーギャン、ロートレック、ゴッホからも
素晴らしいと尊敬されていた。
→60年経っても未だに取り戻せないのは、本当に腹立たしい。
江原さんは戦後生まれだが、東京生まれのため空襲の話を
祖母から聞かされていた。
戦争の話は後世に語り継いで、その時代その時代の人たちに
二度と愚かなことをさせないようにする義務がある。
○江原さん、美輪さんとの関係
美輪さんとは初めまして。
→主人の林家三平さんは、美輪さんの銀座のライブハウスに
しょっちゅう来ていた。
江原さんとは初めまして。
○戦時中の話
海老名さんは1945年の終戦の時は11歳、小学校5年生だった。
本所深川(現在の東京都墨田区)に住んでいた。
父は、江戸時代から代々続いた日本一の釣竿職人。
東京大空襲(1944年)のときは、静岡県沼津市へ疎開していた。
父、母、祖母、兄3人、弟の8人家族。
→中学生以上は学徒動員されるため、海老名さんだけが
強制疎開していた。
家族と別れる時、母が手をぎゅっと握り、強い子だから大丈夫ね、
と言い泣いていた。
→それまでははしゃいでいたが、母の涙を見て心細くなった。
地方に行ったことが無いため、お友達が出来なかったら
どうしよう、と言った。
→あなたは明るくて元気だから大丈夫、と言われた。
4歳だった弟は、大切なメンコをくれた。
→それをポケットに入れ、父に連れられ疎開した。
3日に1回は手紙が来た。
→父は寂しくなったら東京の空に、父ちゃんと3回呼んでごらん、
と書いていた。
○沼津空襲
疎開先の沼津市は、1945年に8回の空爆を受けた。
→空襲警報のサイレンが鳴らないうちに、飛行機が
低空飛行で襲来した。
→防空頭巾を被ったまま、垣根に頭を突っ込んで隠れた。
しばらくしたら頭が熱く、防空頭巾に鉄の破片が
刺さっていたので、あわてて手で振り落とした。
前に自転車に乗っている人がいたが、自転車が倒れていて
目の前でその人が絶命していた。
→飛行機の低空飛行は、パイロットの顔が見えるほどだった。
飛んでくるときはエンジンを切るため、音がしない。
→面白がって撃っている。
○東京大空襲
1945年3月9日から10日にかけて、300機以上のB29が東京下町に
焼夷弾1600トン以上を投下した。
→退避命令が出たため、山の上に登り、夜中に東の空を見たら
赤くなり燃えていた。
→東京がやられている、という大人の声を聞き、子供ながらに
正座して一所懸命拝んだ。
明け方、東京に戻り学校へ行ったら、本所深川は全滅、と
友達に言われた。
→家族は絶対大丈夫と思っていたが、4日目に三男の兄、
喜三郎さん(13歳)がボロボロの服装で、ごめん、ごめん、
みんな死んじゃった、と泣いて現れた。
父は警防団の班長として消火を指揮していた。
→学校へ逃げたが、門が閉まっていて中に避難できなかった。
→熱さから弟を守るため、母が弟を胸に抱いて父がその上から
覆いかぶさり、3人の兄たちが寄り添った。
→その後、父が喜三郎あそこへ逃げろ、と言ったため
無我夢中で逃げたが、気が付いたら喜三郎さんだけが
学校の中に入り、助かった。
→喜三郎さんだけが生きているのが悪いようで、
海老名さんにごめん、ごめんと謝っていた。
→一晩中、二人で抱き合って泣いていた。
兄は二人で世話になるのは悪いからと、あても何もなく
一人で東京に戻っていった。
→別れる時、兄の涙が手に落ちたが、その涙が熱かった。
→涙が熱い、というのはあの時以来知らない。
→兄はその後、行方不明に。
○じゅうたん爆撃
じゅうたんを敷き詰めるように、目標一帯を集中的に
爆撃された。
→下町の密集地に爆弾と焼夷弾(火炎や高熱を出す爆弾)を
落とされたため、火の海になった。
→東京大空襲では、たった2時間で10万人が亡くなった。
○原子爆弾
1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された。
当時10歳の美輪さんは、そのとき長崎にいた。
何も音がしなく、良い天気の日のため、防空頭巾を被り、
自宅で夏休みの宿題の絵を描いていた。
→突然の閃光の後、一千万もの雷が一度に雷が落ちたような
轟音が響き渡った。
→爆風で全てのガラスが一瞬のうちに砕け散り、襖や柱に
直角に破片が刺さっていた。
→美輪さん、兄、お手伝いさんと一緒に逃げたが、3人とも
身体には何も刺さってなく、裸足で逃げた足の裏にも
刺さっていなかった。
→奇跡。
外に出たら、周りは地獄。
→体中の皮がむけ、叫びながら人が飛び跳ねていた。
助けてくれ、と近寄ってくる人が触れると、その人の肉が
剥げ落ちて、自分の体に張り付いた。
○終戦
1945年8月15日、第二次世界大戦終結。
終戦から2ヵ月後、海老名さんは中野の親戚のおじさんに
引き取られた。
→それからは生きるの戦い。
→おじさんの職が無くなり、面倒を見られなくなったため、
葛篭を背負い戦争孤児として、親戚や知人の家を転々とした。
戦後は食糧不足で米は貴重品だった。
→おにぎりを3個持っていれば金持ち。
→焼け跡に生えた雑草とふすま粉の雑炊を食べていた。
12月に実家の焼け跡に行ったら、町が全部消えて無くなっていた。
→家の瓦礫の中から、弟の布団や、母の茶碗のかけらなど、
家族の生きた証が出てきたため、泣いて泣いた。
このままでいつまでもいたいと思い、膝を抱えて座っていたら、
黒っぽい姿の男性が来て、しっかりしなくちゃ駄目だよ、と
声を掛けてくれ、サツマイモを半分分けてくれた。
→それを食べたら体が暖まり、その人を神様かと思った。
→あのころはまだ人情が残っていた、と美輪さん。
その後、家の焼け跡に、父の友人が立て札に連絡先を
書いてくれた。
→その中に柳家金馬さんの名前があり「金馬来る、連絡乞う」と
書いてあった。
→金馬さんを尋ねて行ったら「生きていたんだ、良かったね」
とその日のうちに引き取ってもらった。
→暖かい布団に寝かせていただいた時、助かったと思った。
→その後、兄を探していたら、神田の路上で腰紐を
売っていた兄と再会した。
○結婚
それまでは、無我夢中、生きる本能だった。
→親兄弟からの手紙を肌身離さず、ずっと持っていた。
金馬さんの紹介で林家三平さんと結婚し、林家一門の
おかみさんになった。
○慰霊碑
東京大空襲の犠牲者の遺体が集められた上野に、海老名さんは
終戦60年の節目(2005年)に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と
平和の母子像「時忘れじの塔」を建てた。
→大勢の人が集う場所にどうしても建てたい、という一念で
個人で動いた。
戦時中、一人の時に父ちゃん出てきて、母ちゃん出てきて、と
お願いしたが、一つも感じさせてくれなく、死んだら無だと
思っていた。
→慰霊碑を建てられずに悩んでいた時、さーっと冷たい風が
吹いてきて、白い着物で坊主頭の男性が後ろに立って、
肩を叩いていた。
→自分の頭の中では、頑張って慰霊碑を建ててくれ、と
言っているような気がした。
→頑張って建てるから大丈夫、と言っても肩を叩いてくる
ため、その人の手を持って引っ張ったら、その人が前に
倒れてきて、その人の髭の感触を感じた。
→気持ち悪くなって起き上がったら、髭の感触が肌に
残っていた。
母子像の彫刻の先生は、手が腫れて作業が出来なくなった。
→海老名さんが心から念じたら、腫れが引けた。
また、彫刻の作業に使う道具が先生の胸に突き刺さったが、
胸のポケットに入れていたラジオに刺さり、助かった。
→それからは、奇跡や信じられないことばかりが起きた。
○江原さんの霊視
焼け野原でサツマイモをくれたのは、亡くなったお父さん。
→一種の霊現象。
夜中に寝ているときに、出てきた坊主頭の男性は弟さん。
→4歳で亡くなった弟さんが成長した姿。
蓄音機での楽しい思い出はおありになるんですか、と
江原さんが質問。
→家には蓄音機があり、楽しい思い出、宝物だった。
→父と弟さんは、そのことを忘れていない、あのころはみんな
ひょうきんで楽しかったね、と言っている。
→物は消えても、思い出は残る。
お姑さんがずっとついている。
→慰霊碑のことなど、二人羽織のように全て協力してくれている。
→海老名さんは結婚する前から、林家三平さんの母に大変
可愛がられていた。
→信仰深い人であり、世のために良いことをしているという
感覚と、海老名さんに感謝の気持ちがあり、手伝っている。
三平さんもお姑さんと一緒に助けてくれている。
→三平さんは家が面白くて家の中にいる、と言われたことがある。
→ちゃんと浄化している、と江原さん。
→亡くなった家族も完全に浄化している。
→兄は生家「竿忠」の4代目を継ぎ、江戸和竿協同組合の
組合長も務めている。
今まで身を律することで生きていたが、解放されると良い、と
美輪さんがコメント。
→海老名さんは女の子らしいものが好きなため、これからは
好きなファッションなどを楽しむと良い。
→やりたかった青春を今から始めること。
→ご褒美。
○父と母
父と母は、置いていってごめんね、とおっしゃっている。
→ある意味、生き残った者が悲劇、死ねた者の方が幸せだった。
また、家族を大切にしてください、とおっしゃっている。
→いなくなっても家族であり、その家族の広がりが世界であれば、
世界と感じ取れれば、戦争は無い。
今の時代はありがたずくめ、と美輪さん。
→毎日がもったいない、時間や物がもったいない、という感じ。
→家があり、布団、着る物、食べ物があり、ありがたずくめ。
今の人は生まれたときからそれがあるから、そのありがたみが
分からない。
→若い人はある意味不幸。
若い人に戦争を考えさせるために。
→家へ帰ったときに、愛する人や家族と一生会えなくなることを
考えさせる。
→愛する人が理不尽に奪われること、それが戦争。
海老名香葉子さんが出演。
○海老名香葉子さんのプロフィール
海老名 香葉子(えびな かよこ)
生年月日:1933年10月6日
出身地:東京本所
1952年、林家三平と結婚。
長女はタレントの海老名美どり、長男は落語家の林家正蔵、
次男は落語家の林家いっ平。
○冒頭
美輪さん、江原さんと戦争の話。
約60年前、日本とアメリカが戦争をしていたが、
そのことを知らない今の若い人はたくさんいる。
日本は建物や生命だけでなく、伝統や文化、人の心、
全てを失った。
それまで日本はアインシュタイン、エジソン、チャップリン、
モネ、マネ、ゴーギャン、ロートレック、ゴッホからも
素晴らしいと尊敬されていた。
→60年経っても未だに取り戻せないのは、本当に腹立たしい。
江原さんは戦後生まれだが、東京生まれのため空襲の話を
祖母から聞かされていた。
戦争の話は後世に語り継いで、その時代その時代の人たちに
二度と愚かなことをさせないようにする義務がある。
○江原さん、美輪さんとの関係
美輪さんとは初めまして。
→主人の林家三平さんは、美輪さんの銀座のライブハウスに
しょっちゅう来ていた。
江原さんとは初めまして。
○戦時中の話
海老名さんは1945年の終戦の時は11歳、小学校5年生だった。
本所深川(現在の東京都墨田区)に住んでいた。
父は、江戸時代から代々続いた日本一の釣竿職人。
東京大空襲(1944年)のときは、静岡県沼津市へ疎開していた。
父、母、祖母、兄3人、弟の8人家族。
→中学生以上は学徒動員されるため、海老名さんだけが
強制疎開していた。
家族と別れる時、母が手をぎゅっと握り、強い子だから大丈夫ね、
と言い泣いていた。
→それまでははしゃいでいたが、母の涙を見て心細くなった。
地方に行ったことが無いため、お友達が出来なかったら
どうしよう、と言った。
→あなたは明るくて元気だから大丈夫、と言われた。
4歳だった弟は、大切なメンコをくれた。
→それをポケットに入れ、父に連れられ疎開した。
3日に1回は手紙が来た。
→父は寂しくなったら東京の空に、父ちゃんと3回呼んでごらん、
と書いていた。
○沼津空襲
疎開先の沼津市は、1945年に8回の空爆を受けた。
→空襲警報のサイレンが鳴らないうちに、飛行機が
低空飛行で襲来した。
→防空頭巾を被ったまま、垣根に頭を突っ込んで隠れた。
しばらくしたら頭が熱く、防空頭巾に鉄の破片が
刺さっていたので、あわてて手で振り落とした。
前に自転車に乗っている人がいたが、自転車が倒れていて
目の前でその人が絶命していた。
→飛行機の低空飛行は、パイロットの顔が見えるほどだった。
飛んでくるときはエンジンを切るため、音がしない。
→面白がって撃っている。
○東京大空襲
1945年3月9日から10日にかけて、300機以上のB29が東京下町に
焼夷弾1600トン以上を投下した。
→退避命令が出たため、山の上に登り、夜中に東の空を見たら
赤くなり燃えていた。
→東京がやられている、という大人の声を聞き、子供ながらに
正座して一所懸命拝んだ。
明け方、東京に戻り学校へ行ったら、本所深川は全滅、と
友達に言われた。
→家族は絶対大丈夫と思っていたが、4日目に三男の兄、
喜三郎さん(13歳)がボロボロの服装で、ごめん、ごめん、
みんな死んじゃった、と泣いて現れた。
父は警防団の班長として消火を指揮していた。
→学校へ逃げたが、門が閉まっていて中に避難できなかった。
→熱さから弟を守るため、母が弟を胸に抱いて父がその上から
覆いかぶさり、3人の兄たちが寄り添った。
→その後、父が喜三郎あそこへ逃げろ、と言ったため
無我夢中で逃げたが、気が付いたら喜三郎さんだけが
学校の中に入り、助かった。
→喜三郎さんだけが生きているのが悪いようで、
海老名さんにごめん、ごめんと謝っていた。
→一晩中、二人で抱き合って泣いていた。
兄は二人で世話になるのは悪いからと、あても何もなく
一人で東京に戻っていった。
→別れる時、兄の涙が手に落ちたが、その涙が熱かった。
→涙が熱い、というのはあの時以来知らない。
→兄はその後、行方不明に。
○じゅうたん爆撃
じゅうたんを敷き詰めるように、目標一帯を集中的に
爆撃された。
→下町の密集地に爆弾と焼夷弾(火炎や高熱を出す爆弾)を
落とされたため、火の海になった。
→東京大空襲では、たった2時間で10万人が亡くなった。
○原子爆弾
1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された。
当時10歳の美輪さんは、そのとき長崎にいた。
何も音がしなく、良い天気の日のため、防空頭巾を被り、
自宅で夏休みの宿題の絵を描いていた。
→突然の閃光の後、一千万もの雷が一度に雷が落ちたような
轟音が響き渡った。
→爆風で全てのガラスが一瞬のうちに砕け散り、襖や柱に
直角に破片が刺さっていた。
→美輪さん、兄、お手伝いさんと一緒に逃げたが、3人とも
身体には何も刺さってなく、裸足で逃げた足の裏にも
刺さっていなかった。
→奇跡。
外に出たら、周りは地獄。
→体中の皮がむけ、叫びながら人が飛び跳ねていた。
助けてくれ、と近寄ってくる人が触れると、その人の肉が
剥げ落ちて、自分の体に張り付いた。
○終戦
1945年8月15日、第二次世界大戦終結。
終戦から2ヵ月後、海老名さんは中野の親戚のおじさんに
引き取られた。
→それからは生きるの戦い。
→おじさんの職が無くなり、面倒を見られなくなったため、
葛篭を背負い戦争孤児として、親戚や知人の家を転々とした。
戦後は食糧不足で米は貴重品だった。
→おにぎりを3個持っていれば金持ち。
→焼け跡に生えた雑草とふすま粉の雑炊を食べていた。
12月に実家の焼け跡に行ったら、町が全部消えて無くなっていた。
→家の瓦礫の中から、弟の布団や、母の茶碗のかけらなど、
家族の生きた証が出てきたため、泣いて泣いた。
このままでいつまでもいたいと思い、膝を抱えて座っていたら、
黒っぽい姿の男性が来て、しっかりしなくちゃ駄目だよ、と
声を掛けてくれ、サツマイモを半分分けてくれた。
→それを食べたら体が暖まり、その人を神様かと思った。
→あのころはまだ人情が残っていた、と美輪さん。
その後、家の焼け跡に、父の友人が立て札に連絡先を
書いてくれた。
→その中に柳家金馬さんの名前があり「金馬来る、連絡乞う」と
書いてあった。
→金馬さんを尋ねて行ったら「生きていたんだ、良かったね」
とその日のうちに引き取ってもらった。
→暖かい布団に寝かせていただいた時、助かったと思った。
→その後、兄を探していたら、神田の路上で腰紐を
売っていた兄と再会した。
○結婚
それまでは、無我夢中、生きる本能だった。
→親兄弟からの手紙を肌身離さず、ずっと持っていた。
金馬さんの紹介で林家三平さんと結婚し、林家一門の
おかみさんになった。
○慰霊碑
東京大空襲の犠牲者の遺体が集められた上野に、海老名さんは
終戦60年の節目(2005年)に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と
平和の母子像「時忘れじの塔」を建てた。
→大勢の人が集う場所にどうしても建てたい、という一念で
個人で動いた。
戦時中、一人の時に父ちゃん出てきて、母ちゃん出てきて、と
お願いしたが、一つも感じさせてくれなく、死んだら無だと
思っていた。
→慰霊碑を建てられずに悩んでいた時、さーっと冷たい風が
吹いてきて、白い着物で坊主頭の男性が後ろに立って、
肩を叩いていた。
→自分の頭の中では、頑張って慰霊碑を建ててくれ、と
言っているような気がした。
→頑張って建てるから大丈夫、と言っても肩を叩いてくる
ため、その人の手を持って引っ張ったら、その人が前に
倒れてきて、その人の髭の感触を感じた。
→気持ち悪くなって起き上がったら、髭の感触が肌に
残っていた。
母子像の彫刻の先生は、手が腫れて作業が出来なくなった。
→海老名さんが心から念じたら、腫れが引けた。
また、彫刻の作業に使う道具が先生の胸に突き刺さったが、
胸のポケットに入れていたラジオに刺さり、助かった。
→それからは、奇跡や信じられないことばかりが起きた。
○江原さんの霊視
焼け野原でサツマイモをくれたのは、亡くなったお父さん。
→一種の霊現象。
夜中に寝ているときに、出てきた坊主頭の男性は弟さん。
→4歳で亡くなった弟さんが成長した姿。
蓄音機での楽しい思い出はおありになるんですか、と
江原さんが質問。
→家には蓄音機があり、楽しい思い出、宝物だった。
→父と弟さんは、そのことを忘れていない、あのころはみんな
ひょうきんで楽しかったね、と言っている。
→物は消えても、思い出は残る。
お姑さんがずっとついている。
→慰霊碑のことなど、二人羽織のように全て協力してくれている。
→海老名さんは結婚する前から、林家三平さんの母に大変
可愛がられていた。
→信仰深い人であり、世のために良いことをしているという
感覚と、海老名さんに感謝の気持ちがあり、手伝っている。
三平さんもお姑さんと一緒に助けてくれている。
→三平さんは家が面白くて家の中にいる、と言われたことがある。
→ちゃんと浄化している、と江原さん。
→亡くなった家族も完全に浄化している。
→兄は生家「竿忠」の4代目を継ぎ、江戸和竿協同組合の
組合長も務めている。
今まで身を律することで生きていたが、解放されると良い、と
美輪さんがコメント。
→海老名さんは女の子らしいものが好きなため、これからは
好きなファッションなどを楽しむと良い。
→やりたかった青春を今から始めること。
→ご褒美。
○父と母
父と母は、置いていってごめんね、とおっしゃっている。
→ある意味、生き残った者が悲劇、死ねた者の方が幸せだった。
また、家族を大切にしてください、とおっしゃっている。
→いなくなっても家族であり、その家族の広がりが世界であれば、
世界と感じ取れれば、戦争は無い。
今の時代はありがたずくめ、と美輪さん。
→毎日がもったいない、時間や物がもったいない、という感じ。
→家があり、布団、着る物、食べ物があり、ありがたずくめ。
今の人は生まれたときからそれがあるから、そのありがたみが
分からない。
→若い人はある意味不幸。
若い人に戦争を考えさせるために。
→家へ帰ったときに、愛する人や家族と一生会えなくなることを
考えさせる。
→愛する人が理不尽に奪われること、それが戦争。