京谷和幸さん
オーラの泉 スペシャル(2008/12/20放送)に、元サッカー選手、
車いすバスケットボール選手の京谷和幸さんが出演。
※スタジオ出演ではなくドキュメント紹介。
○京谷和幸さんのプロフィール
京谷和幸(きょうや かずゆき)
生年月日:1971年8月13日
出身地:北海道室蘭市
血液型:O型
1991年、東日本JR古河サッカークラブ(ジェフユナイテッド市原)とプロ契約。
1993年、Jリーグ開幕。
1993年11月、交通事故で脊髄を損傷し下半身不随に。
1994年、陽子さんと結婚。
1994年、車椅子バスケットボールを始める。
2000年、シドニーパラリンピックに出場。
2004年、アテネパラリンピックに出場。
2008年、北京パラリンピックに出場。
○交通事故
京谷和幸さんは将来を期待されたJリーガーだったが、15年前に
交通事故で脊髄を損傷。
→下半身麻痺に。
1993年11月、陽子さんは「交通事故で入院した」という知らせを
受けた。
→京谷和幸さんが交通事故で入院した、という連絡。
→命は助かったが、脊髄を損傷。
→99パーセントは車椅子生活、と医師から言われた。
→少しでも希望があるため、歩けなくなるほどの重症だと、
本人には伝えなかった。
2ヵ月後の結婚式は延期。
→陽子さんは、和幸さんの両親から婚約解消の申込みをされた。
→わざわざ苦労するところに来なくても、という両親の優しさ。
→しかし、陽子さんは病室へ結婚届と婚約指輪を持って行き、
1993年12月に入籍を済ませた。
お正月が過ぎても、和幸さんの足は動かなかった。
→医師から「二度とサッカーはできない」と言われ、とても辛く、
ずっと泣いていた。
→でも俺は一人じゃない、と思った時、初めて陽子さんが「入籍
しよう」と言ってくれた意味が分かった。
→半年間のリハビリを経て退院。
→1994年10月に挙式。
○車椅子バスケット
サッカー選手のため職業もなく、家で一緒に過ごしていた。
→金銭的に苦しくなり、ずっと一緒にいることで言い合いになる
こともあった。
→生きがいを失い、仕事もなかなか見つからなかった。
ある日、車椅子バスケットに誘われた。
→全国でも強豪の千葉ホークスの練習に参加し、入団。
→激しくぶつかり合い、予想外にハードな競技に驚かされた。
→最初は練習がしんどかった。
→帰ってきた時の顔は、とてもうれしそうだった。
→新しいチームメイトに出会い、自分の中で何かが
変わっていった。
→バスケット仲間の紹介で、新しい仕事も決まった。
その後、子供が誕生。
→子供たち自慢の父親になりたい、とバスケットに打ち込んだ。
→2000年、シドニー・パラリンピックに出場。
→アテネ、北京と3大会連続出場を果たす。
→妻に認められたい、子供たちに自分の背中を見続けたい、
と思い、続けてきた。
○つるの剛士さんの見解
奥さんに褒めてもらいたい気持ちはすごく分かる。
→自分の自信になるため。
○松岡昌宏さんの見解
体に障害を持った人の方がメンタルが強い。
→目の力、連帯感、助け合いの精神も強い。
→普通に生活している僕らは、あの目を持っていない。
○船越英一郎さんの見解
自分のために頑張れる人はそういない。
→奥さんがいなければ、パラリンピックに行っていなかったかも
しれない。
→奥さんを思う気持ちが、あそこまで彼を強くしたと思う。
○櫻井淳子さんの見解
自分は本当に未熟だなと思う。
→支えてもらいたい、と思ってしまう。
→主人を支えなくてあげなくてはならない、と思った。
奥様の新人だから、と美輪さん。
→プロになれば、加減が分かってくる。
→初めてだらけのため、初心者は上手く行かない。
魂のうえでも初心者、と江原さん。
→前世では、結婚も出産もしていない。
→本当に初めてだから、すごく神経質になって、パニックに
なってしまう。
○江原啓之さんの見解
何かを失うと何かを得る、人生はそういうもの。
→この世に生きている人は、何かしらの十字架を背負っている。
→表面に見えないこともあり、身体とは限らない。
→みんな同じ。
○美輪明宏さんの見解
今まで、羨ましい人は一人も見たことがない。
→羨ましい人は世の中にいない。
→街を歩いている人たちでも、大なり小なり痛み、苦しみ、
悩み、悲しみを抱えている。
→人を羨む時には、その人の持っている苦労も欲しがって
ください、と江原さん。
車いすバスケットボール選手の京谷和幸さんが出演。
※スタジオ出演ではなくドキュメント紹介。
○京谷和幸さんのプロフィール
京谷和幸(きょうや かずゆき)
生年月日:1971年8月13日
出身地:北海道室蘭市
血液型:O型
1991年、東日本JR古河サッカークラブ(ジェフユナイテッド市原)とプロ契約。
1993年、Jリーグ開幕。
1993年11月、交通事故で脊髄を損傷し下半身不随に。
1994年、陽子さんと結婚。
1994年、車椅子バスケットボールを始める。
2000年、シドニーパラリンピックに出場。
2004年、アテネパラリンピックに出場。
2008年、北京パラリンピックに出場。
○交通事故
京谷和幸さんは将来を期待されたJリーガーだったが、15年前に
交通事故で脊髄を損傷。
→下半身麻痺に。
1993年11月、陽子さんは「交通事故で入院した」という知らせを
受けた。
→京谷和幸さんが交通事故で入院した、という連絡。
→命は助かったが、脊髄を損傷。
→99パーセントは車椅子生活、と医師から言われた。
→少しでも希望があるため、歩けなくなるほどの重症だと、
本人には伝えなかった。
2ヵ月後の結婚式は延期。
→陽子さんは、和幸さんの両親から婚約解消の申込みをされた。
→わざわざ苦労するところに来なくても、という両親の優しさ。
→しかし、陽子さんは病室へ結婚届と婚約指輪を持って行き、
1993年12月に入籍を済ませた。
お正月が過ぎても、和幸さんの足は動かなかった。
→医師から「二度とサッカーはできない」と言われ、とても辛く、
ずっと泣いていた。
→でも俺は一人じゃない、と思った時、初めて陽子さんが「入籍
しよう」と言ってくれた意味が分かった。
→半年間のリハビリを経て退院。
→1994年10月に挙式。
○車椅子バスケット
サッカー選手のため職業もなく、家で一緒に過ごしていた。
→金銭的に苦しくなり、ずっと一緒にいることで言い合いになる
こともあった。
→生きがいを失い、仕事もなかなか見つからなかった。
ある日、車椅子バスケットに誘われた。
→全国でも強豪の千葉ホークスの練習に参加し、入団。
→激しくぶつかり合い、予想外にハードな競技に驚かされた。
→最初は練習がしんどかった。
→帰ってきた時の顔は、とてもうれしそうだった。
→新しいチームメイトに出会い、自分の中で何かが
変わっていった。
→バスケット仲間の紹介で、新しい仕事も決まった。
その後、子供が誕生。
→子供たち自慢の父親になりたい、とバスケットに打ち込んだ。
→2000年、シドニー・パラリンピックに出場。
→アテネ、北京と3大会連続出場を果たす。
→妻に認められたい、子供たちに自分の背中を見続けたい、
と思い、続けてきた。
○つるの剛士さんの見解
奥さんに褒めてもらいたい気持ちはすごく分かる。
→自分の自信になるため。
○松岡昌宏さんの見解
体に障害を持った人の方がメンタルが強い。
→目の力、連帯感、助け合いの精神も強い。
→普通に生活している僕らは、あの目を持っていない。
○船越英一郎さんの見解
自分のために頑張れる人はそういない。
→奥さんがいなければ、パラリンピックに行っていなかったかも
しれない。
→奥さんを思う気持ちが、あそこまで彼を強くしたと思う。
○櫻井淳子さんの見解
自分は本当に未熟だなと思う。
→支えてもらいたい、と思ってしまう。
→主人を支えなくてあげなくてはならない、と思った。
奥様の新人だから、と美輪さん。
→プロになれば、加減が分かってくる。
→初めてだらけのため、初心者は上手く行かない。
魂のうえでも初心者、と江原さん。
→前世では、結婚も出産もしていない。
→本当に初めてだから、すごく神経質になって、パニックに
なってしまう。
○江原啓之さんの見解
何かを失うと何かを得る、人生はそういうもの。
→この世に生きている人は、何かしらの十字架を背負っている。
→表面に見えないこともあり、身体とは限らない。
→みんな同じ。
○美輪明宏さんの見解
今まで、羨ましい人は一人も見たことがない。
→羨ましい人は世の中にいない。
→街を歩いている人たちでも、大なり小なり痛み、苦しみ、
悩み、悲しみを抱えている。
→人を羨む時には、その人の持っている苦労も欲しがって
ください、と江原さん。