倉本聰さん
オーラの泉(2009/08/15放送)に、脚本家の倉本聰さんが出演。
○倉本聰さんのプロフィール
倉本聰(くらもと そう)
本名:山谷馨
生年月日:1935年1月1日
出身地:東京都
血液型:−
1959年、ニッポン放送に入社。
1959年、日本テレビ「パパ起きてちょうだい」で脚本家デビュー。
1963年、ニッポン放送を退社。
1981年、「北の国から」で話題に。
1984年、「富良野塾」を開設。
2005年、「富良野自然塾」を設立。
○スピリチュアル・チェック
・今の気持ち
→なぜここにいるのか、よく分からない
・最近、嬉しかったこと
→いっぱいありすぎて・・・
・最近、腹が立ったこと
→これもいっぱいありすぎて!
・宝物
→今育てている森
・苦手なもの
→雷とお化け
・番組へお誘いした国分太一さんへ一言
→どうぞ、お手柔らかに
○江原さん、美輪さんとの関係
1979年、美輪さんの舞台「愛の讃歌」に、奥さんで女優の平木久子
さんが出演している。
江原さんは先日、北海道を訪れた時、不思議な縁で倉本さんと
出会った。
→旭川にいる主治医の先生は、倉本さんの主治医だった。
→富良野に行きましょう、ということになり、倉本さんと会って、
芝居も拝見することができた。
→その日に、「実はオーラの泉からオファーが来てるんだけど」
という話をされた。
○帰国
気が付いたら富良野に住んでいた、と倉本さん。
→作品も気付いたら書いていた、ということが多い。
新作舞台「帰国」を見た時、劇場で英霊たちを見てしまった、と
江原さん。
→原作は終戦から10年後に、復興した日本を見て英霊がほっとする
話、と倉本さん。
→舞台では、60年経った日本を英霊たちが見て、ほっとする
だろうか、という内容。
→日本の平和はこういう形だったのだろうか?
→あきれて非常に怒るのではないか?という気持ちが非常に
強かった、と倉本さん。
昔と今の日本人で変わったのは倫理観、と倉本さん。
→舞台では最後に「恥を知れ」という言葉がある。
→今の日本人が忘れているのは恥。
○北の国から
30代後半に東京で書いていたが、自分の想像を超えた作品がすごい
スピードで書けた、と倉本さん。
→すごく集中して、1日で仕上げたこともあった。
→その代わり、書いた後に吐いたり、肩こりになったりする。
その頃、スピリチュアルな先生と知り合い、相談した。
→それは当たり前だ、君が書いていないから、と言われた。
→神様に書かされているから。
→お香を焚くと良い、と言われた。
→いつもお香を焚きながら書いている。
ある時、すごく良い作品が書けた時、お香の煙が体に巻きついた
感じがあった、と倉本さん。
→窓は閉めていた。
→スピリチュアルな先生からは、今度の作品で賞を取るよ、と
言われた。
→実際に「6羽のかもめ」「前略おふくろ様」で、8つの賞を
授賞。
この賞は自分が取ったのか、霊が取ったのか、という変な考えが
あった、と倉本さん。
→俺が取ったんだと思ったら、その後4年間は良いものが書けな
かった。
→不純さがいけなかったと思い、その4年間はもがき続けた。
その時期に、棟方志功のドキュメントをたまたま見た。
→「僕は作品に責任なんて持てない。僕が作っているんじゃない。
神様が作らしている。」という言葉があった。
→アーティストやクリエイターは、霊や神様に奏でられる楽器で
あればいい、と倉本さん。
→清らかな魂に自分をおいておけば、良い物を持ってきて
くれる。
「北の国から」あたりから、自分で書いている気はしない、と
倉本さん。
→書かされているのは、霊的には自動書記、と美輪さん。
→三島由紀夫さんもそうだった。
→眠くて仕方ないのに、筆だけが活発に動いていた。
→後から添削しようとしたら、何かの力で筆を入れられ
なかった(書き直せない)。
○北海道
北海道の札幌に2〜3年住んでいて、その間に北海道のどこかで
永住しようと思い、北海道中を見て回った、と倉本さん。
→北海道に決めた理由はよく分からない。
NHKとケンカして、NHKの西口を出た所までは覚えている、と
倉本さん。
→気が付いたら、千歳空港にいた。
→トラブルも北海道へ行く原因だった、と美輪さん。
→今はNHKに感謝している、と倉本さん。
→トラブルがなかったら、東京でどうだったのだろう、と
ゾッとする。
「ニングル」の作品の中で答えが出ている、と江原さん。
→森の妖精「ニングル」が、森林を伐採する人間に警告を発する
という舞台。
→倉本さんを必要としている神様がいる、と江原さん。
→2005年、富良野自然塾を設立。
→閉鎖されたゴルフ場に苗を植えて、森に戻す活動。
○大自然
北海道に住むようになってから、自然が大切に思えるようになった。
→親しいカナダの原住民の所で暮らしてみると、とっても不思議な
気持ちになる、と倉本さん。
→最初の日は、怖くて眠れなかった。
→霊感の強い女性から、テントの周りに原住民の霊が歩いて
いた、と言われた。
→翌日からは憑き物が落ちたように、ものすごく深く眠れる
ようになった、と倉本さん。
→一晩テストをされて、受け入れられたからだと思う。
→その通り、と江原さん。
○前世
前世は、ネイティブアメリカン。
→カナダへ行った時は、故郷という感じがした、と倉本さん。
→色々な頼みを受ける要因。
スピリチュアルチェックの「苦手なものはお化け」というのは、
神に対する畏れ、と美輪さん。
→畏れを知らなくなると、図々しい人間になる。
○戦後の日本
戦前と戦後の日本の違いは、自分に恥じないか、何かに見られて
いる、という行動の基準、と倉本さん。
→戦後は倫理観が無くなってしまった。
→その代わりに法律で規制されるようになり、法律の網目を
くぐればいい、という風になってしまった。
「富良野自然塾」で、子どものために死ねる人は手を挙げて
ください、と言った。
→60数人いたが、手を挙げたのは6人だった。
→愛の蓄え量が少ない、と倉本さん。
命を分けた自分の分身だから、命を引き換えにできる、と江原さん。
→今は自分の命とはセパレートで育っているから、死ぬ気に
なれない。
便利になると怠け者になる、と美輪さん。
→豊かとは、富裕にして幸せなことだが、今の日本は幸せが欠落
して、富裕が優先している、と倉本さん。
○父親
父親はずっとそばにいる、と江原さん。
→父親と常にずっと一緒にいる。
→自然の中に連れて行ってくれたのも、文学に目覚めさせて
くれたのも父親、と倉本さん。
北海道に行くきっかけとなったケンカは、父親らしいケンカ、と
江原さん。
→父親が乗り移っていたため、倉本さんは覚えていない。
父親は、終わりを考えないで、とおっしゃっている。
→1本作品を書くと、これが最後だと思う、と倉本さん。
→断筆宣言をした訳ではないので、また書きたくなったら書く、
と倉本さん。
○倉本聰さんのプロフィール
倉本聰(くらもと そう)
本名:山谷馨
生年月日:1935年1月1日
出身地:東京都
血液型:−
1959年、ニッポン放送に入社。
1959年、日本テレビ「パパ起きてちょうだい」で脚本家デビュー。
1963年、ニッポン放送を退社。
1981年、「北の国から」で話題に。
1984年、「富良野塾」を開設。
2005年、「富良野自然塾」を設立。
○スピリチュアル・チェック
・今の気持ち
→なぜここにいるのか、よく分からない
・最近、嬉しかったこと
→いっぱいありすぎて・・・
・最近、腹が立ったこと
→これもいっぱいありすぎて!
・宝物
→今育てている森
・苦手なもの
→雷とお化け
・番組へお誘いした国分太一さんへ一言
→どうぞ、お手柔らかに
○江原さん、美輪さんとの関係
1979年、美輪さんの舞台「愛の讃歌」に、奥さんで女優の平木久子
さんが出演している。
江原さんは先日、北海道を訪れた時、不思議な縁で倉本さんと
出会った。
→旭川にいる主治医の先生は、倉本さんの主治医だった。
→富良野に行きましょう、ということになり、倉本さんと会って、
芝居も拝見することができた。
→その日に、「実はオーラの泉からオファーが来てるんだけど」
という話をされた。
○帰国
気が付いたら富良野に住んでいた、と倉本さん。
→作品も気付いたら書いていた、ということが多い。
新作舞台「帰国」を見た時、劇場で英霊たちを見てしまった、と
江原さん。
→原作は終戦から10年後に、復興した日本を見て英霊がほっとする
話、と倉本さん。
→舞台では、60年経った日本を英霊たちが見て、ほっとする
だろうか、という内容。
→日本の平和はこういう形だったのだろうか?
→あきれて非常に怒るのではないか?という気持ちが非常に
強かった、と倉本さん。
昔と今の日本人で変わったのは倫理観、と倉本さん。
→舞台では最後に「恥を知れ」という言葉がある。
→今の日本人が忘れているのは恥。
○北の国から
30代後半に東京で書いていたが、自分の想像を超えた作品がすごい
スピードで書けた、と倉本さん。
→すごく集中して、1日で仕上げたこともあった。
→その代わり、書いた後に吐いたり、肩こりになったりする。
その頃、スピリチュアルな先生と知り合い、相談した。
→それは当たり前だ、君が書いていないから、と言われた。
→神様に書かされているから。
→お香を焚くと良い、と言われた。
→いつもお香を焚きながら書いている。
ある時、すごく良い作品が書けた時、お香の煙が体に巻きついた
感じがあった、と倉本さん。
→窓は閉めていた。
→スピリチュアルな先生からは、今度の作品で賞を取るよ、と
言われた。
→実際に「6羽のかもめ」「前略おふくろ様」で、8つの賞を
授賞。
この賞は自分が取ったのか、霊が取ったのか、という変な考えが
あった、と倉本さん。
→俺が取ったんだと思ったら、その後4年間は良いものが書けな
かった。
→不純さがいけなかったと思い、その4年間はもがき続けた。
その時期に、棟方志功のドキュメントをたまたま見た。
→「僕は作品に責任なんて持てない。僕が作っているんじゃない。
神様が作らしている。」という言葉があった。
→アーティストやクリエイターは、霊や神様に奏でられる楽器で
あればいい、と倉本さん。
→清らかな魂に自分をおいておけば、良い物を持ってきて
くれる。
「北の国から」あたりから、自分で書いている気はしない、と
倉本さん。
→書かされているのは、霊的には自動書記、と美輪さん。
→三島由紀夫さんもそうだった。
→眠くて仕方ないのに、筆だけが活発に動いていた。
→後から添削しようとしたら、何かの力で筆を入れられ
なかった(書き直せない)。
○北海道
北海道の札幌に2〜3年住んでいて、その間に北海道のどこかで
永住しようと思い、北海道中を見て回った、と倉本さん。
→北海道に決めた理由はよく分からない。
NHKとケンカして、NHKの西口を出た所までは覚えている、と
倉本さん。
→気が付いたら、千歳空港にいた。
→トラブルも北海道へ行く原因だった、と美輪さん。
→今はNHKに感謝している、と倉本さん。
→トラブルがなかったら、東京でどうだったのだろう、と
ゾッとする。
「ニングル」の作品の中で答えが出ている、と江原さん。
→森の妖精「ニングル」が、森林を伐採する人間に警告を発する
という舞台。
→倉本さんを必要としている神様がいる、と江原さん。
→2005年、富良野自然塾を設立。
→閉鎖されたゴルフ場に苗を植えて、森に戻す活動。
○大自然
北海道に住むようになってから、自然が大切に思えるようになった。
→親しいカナダの原住民の所で暮らしてみると、とっても不思議な
気持ちになる、と倉本さん。
→最初の日は、怖くて眠れなかった。
→霊感の強い女性から、テントの周りに原住民の霊が歩いて
いた、と言われた。
→翌日からは憑き物が落ちたように、ものすごく深く眠れる
ようになった、と倉本さん。
→一晩テストをされて、受け入れられたからだと思う。
→その通り、と江原さん。
○前世
前世は、ネイティブアメリカン。
→カナダへ行った時は、故郷という感じがした、と倉本さん。
→色々な頼みを受ける要因。
スピリチュアルチェックの「苦手なものはお化け」というのは、
神に対する畏れ、と美輪さん。
→畏れを知らなくなると、図々しい人間になる。
○戦後の日本
戦前と戦後の日本の違いは、自分に恥じないか、何かに見られて
いる、という行動の基準、と倉本さん。
→戦後は倫理観が無くなってしまった。
→その代わりに法律で規制されるようになり、法律の網目を
くぐればいい、という風になってしまった。
「富良野自然塾」で、子どものために死ねる人は手を挙げて
ください、と言った。
→60数人いたが、手を挙げたのは6人だった。
→愛の蓄え量が少ない、と倉本さん。
命を分けた自分の分身だから、命を引き換えにできる、と江原さん。
→今は自分の命とはセパレートで育っているから、死ぬ気に
なれない。
便利になると怠け者になる、と美輪さん。
→豊かとは、富裕にして幸せなことだが、今の日本は幸せが欠落
して、富裕が優先している、と倉本さん。
○父親
父親はずっとそばにいる、と江原さん。
→父親と常にずっと一緒にいる。
→自然の中に連れて行ってくれたのも、文学に目覚めさせて
くれたのも父親、と倉本さん。
北海道に行くきっかけとなったケンカは、父親らしいケンカ、と
江原さん。
→父親が乗り移っていたため、倉本さんは覚えていない。
父親は、終わりを考えないで、とおっしゃっている。
→1本作品を書くと、これが最後だと思う、と倉本さん。
→断筆宣言をした訳ではないので、また書きたくなったら書く、
と倉本さん。